モリノイエを体験|荒井 利枝子さん

[ 白の家 ]
おいしいコーヒーは、
コーヒーだけではつくれない。
SOL'S COFFEE / quissaco 代表

荒井 利枝子さん

1. 白い森、白い家

「5店舗のコーヒー店を経営する女社長」という肩書に持っていた先入観は、彼女と話すうちに消えていった。

荒井利枝子、東京都葛飾区生まれ。メッキや金属加工の町工場が建ち並ぶいわゆる「下町」の鉄骨屋の長女として育った。「溶接をしている火の粉を越えないと、小学校の通学路に出られなかったんです。小さい頃は、おじいちゃんが【うちのごんた(=じゃじゃ馬)】っていうタイトルの絵日記書いてたくらい、おてんばで」。彼女が笑うと空気まで明るくなる。

雪深い2月の軽井沢。浅間山を望む森の高台に佇む「白の家」は雪景色の中に包まれていた。「軽井沢でこんなふうに過ごすのは初めてです。雪ってこんなに静かなんですね」。窓の外を眩しそうに眺めてから「現実世界から遮断された感じ」とぽつりと、でもどこか嬉しそうに彼女は言った。

壁一面の窓から見えるのは、屋根から下がる氷柱と雪を纏った木々、遠くに浅間山。そのシンプルな遠近の重なりが美しく、キツネやリスでも出て来ようものなら、子どもの頃に観た人形劇のセットそのものだった。

2.コーヒー人生のプロローグ

一歩外は凍てつく白銀の森。でも家の中は薄手のシャツで過ごせそうなほど暖かい。陽のあたるところへ椅子を動かして他愛もない話をする、この幸福感。「ここの窓と光が好き」だと彼女は言う。景色をダイナミックに切り取る窓、主張し過ぎない間接照明、火が灯される前の暖炉。必要最小限のものが静かに出番を待つ、空間の心地よさがある。

彼女がコーヒーと出会ったのは中学校3年生の頃。現地でケガをしたオーストラリアのいとこの元を訪れた時だ。オースラリアはコーヒーを愛する人が多く、朝も昼もお店へ行きコーヒーとバリスタとの会話を楽しむ。コーヒーが日常の1ピースなのだ。

「コーヒーは健康になるために飲みに行くんだよ」
現地でその言葉を聞いた15歳の少女の頭にはたくさんの「?」が浮かんだ。当時まだ日本には「カフェインは体に悪い」という風潮があった時代。「コーヒー屋って素敵だな」という感動を、日本に持って帰ることになる。彼女の人生にコーヒーが静かに交差しはじめた。

高校の頃は地元のコーヒー屋さんで、大学や専門学校に通っていた時も、コーヒー店でのバイトを続けていた。一貫して抱いているのは「日常の中にあるコーヒー」への想い。そしてついに卒業後、同級生とともにコーヒー屋をはじめることを決意する。SOL'S COFFEEの誕生だ。

ワゴンの移動販売、カフェでの経験を経て、念願だったロースタリーもオープンした。現在5店舗を構えるSOL'S COFFEEの、創業から変わらないコンセプトは「毎日飲んでも体にやさしいコーヒー」。オーストラリアでの原体験は、彼女の中にしっかりと根を下ろしている。

3.母の知らぬ間に子は育つ

サラサラの雪や、玄関の前にあるどんぐり、小さな動物の足跡を見て、「雪だるまつくろう」と外へ飛び出した、姉・梛ちゃんと、弟・朔くん。

「梛は木の名前からとったんです。いつか巣立っても木を育ててたらさみしくないかなって」。そう言って泣き真似をした後「私の人生が波乱万丈だったから、この子には穏やかな人生を過ごして欲しい」と母の顔になった。梛の葉は航海する人の無事を祈って渡すお守りでもある。
朔くんは予定日の「1日=旧暦の朔日」から命名。「ナイツのお笑いを見てたら破水して」出産したという。カメラを向けると100点の笑顔でポーズをとる天真爛漫な朔くんを見て納得。お母さんの爆笑から生まれるなんて、なんて幸せな人生のスタートだろう。「さっきカルタしてたら、朔がいつの間にか文字を理解していたんです。忙しくしてて気付いてなかったなぁ」と少しさみしそうに彼女は笑った。

4.概念をつくっている

実はSOL'S COFFEEはここ数年、挑戦の真っ只中にいる。電気を使わない日本製のエスプレッソメーカー「ARCO(アルコ)」を、新潟・燕三条の職人と共に開発したのだ。コーヒーの延長線上にある商品とはいえ、コーヒー屋と製造メーカーは全く別。大きな舵切りの背景には「荒井鉄工所」を守ってきた亡き父への想いがあった。「日本のものづくりは世界に誇れる」父の口癖を胸に、父亡き後に事業も借金も継承する道を選んだ。

「利枝子ちゃんたちが作ろうとしてるのはモノじゃなくて概念だね」
尊敬する人からの言葉も彼女の道をクリアにした。誰でも簡単に淹れられるものじゃなく、ミニマルで、使い続けていくうちに手に馴染む「育つ道具」をつくりたい。最初は理解されなかったが、1人また1人と協力者が増えていった。「茨の道を進まない私は私じゃない」と言う彼女には「男前」という言葉がやはり似合う。

5.おとーやんの目にうつるもの

「昨日の夜おとーやんと森を散歩したよ」と子どもたち。ちなみにこの「おとーやん、おかーやん」という呼称は誰に教わるでもなく子どもたちのセンス。父母と兄姉と友達が混ざったような絶妙さが、荒井家にぴったりだ。

「おとーやん」こと夫の祥さんは「軽井沢の森に来て、むしろ自分がなぜ町が好きなのかが分かった」と言う。元々ミュージシャンだった祥さんは、結婚後にSOL’S COFFEEの音楽事業部「SOL’S SOUND」をスタート。今や焙煎や店舗マネージャーも担っている。

祥さんは昔、地方で音楽のイベントを、飲食店、アパレル、イベンターなど多様な職種が支え合ってつくるを目の当たりにし、感銘を受けた経験がある。ベッドタウン生まれ、転勤族育ちだった祥さんのルーツには「文化が生まれそうな町のムード」がなかった。お隣さんがお醤油を借りに来るような下町で育った彼女とは対極。下町の町工場を継いだのは、町の一部としてその地に根付いてみたいという思いもあった。
「自分は町と離れたら孤独を感じると気づけたことが嬉しいんです」。軽井沢の森は癒やしだけでなく自分と向き合うきっかけもくれる。

6.日常の強制終了

「そろそろワインでも開けようか」と誰かが言い始めた。時刻はまだPM3時。ワインの前にARCOでエスプレッソを淹れながら「この家に来てから、いつも急いでやってる作業を丁寧にしているのも、それに気付けたのも嬉しい」と彼女は言う。

白の家に到着直後、彼女は深い眠りに落ち「ごはんだよ」と起こされた時はすでに夜。「こんな経験ははじめて」だったと言う。軽井沢の街には、美術館や本屋、ワインショップなど彼女の心をくすぐるお店やスポットがコンパクトに詰まっている。本来ならば街を散策するが、外には深々と積もった雪。「たまにはゆっくりしなさいというお告げ」だと観念した。日常の強制終了、心身の完全なるOFF。「景色がいいスパイスになってる」と、淹れ終えたエスプレッソを差し出しながら彼女は言った。湯気の立つエスプレッソを手にウッドデッキへ出て、少し雲がかかった浅間山を眺める。曖昧な山の端が美しく、まるで水彩画のようだった。

7.もう一つの場所

もし、もう一つ人生の拠点をつくるなら?とたずねてみると、「ここみたいに空気がカラッとしていて、できれば暖かい場所」と答えてから「あと気持ちのいい風が吹くところ。バイクにも乗るので」と彼女は目を細めた。そこでふと、軽井沢に来てから感じる漠然とした心地よさの一つが「風」だと気付く。風はどこでも吹いているのに、ここは何かが違う。森の木々の香りなのか、湿度のない軽やかさなのか。

色んな場所や人に会うのが好きな彼女だが、移動や宿泊などに必要な旅の「予約」が苦手だと言う。拠点そのものを東京以外へ移すのを考えたこともあるが、仕事や子育てのことを考え二の足を踏んだ。そんな彼女が行き着いたのが「キャンピングカー」だった。「好きな場所、景色を求めて、計画もなく気ままに。私にはそれが合ってる」と笑う。

山、海、都会、田舎、心地いいと感じる場所には人それぞれ本能的に惹かれる理由がある。彼女にとってそれは「場所」ではなく「場所にしばられない自由さ」。彼女自身が風のような人なのだ。

8.味だけでは、味わえない。

今夜のシェフは、都内のイタリア料理の名店で働いた経験もある祥さん。軽井沢のスーパーで選んだ新鮮な海老や蛸、珍しい旬のきのこを使い、飲みかけのナチュールワインで味を整える。贅沢な森と海のパエリアと、旬の地野菜のサラダが完成した。窓の外は街灯も何もない暗闇の森。食卓に灯るペンダントライトを一際あたたかく感じる。

「五感で人間の印象って変わりますよね」ワイン片手に彼女が言う。例えば照明の色、音、景色、その全てが味わいになる。「コーヒーと一緒にお菓子が欲しい、音楽が聞きたい、せっかくなら景色のいいところで、みたいに、コーヒーだけ美味しければ豊かなわけじゃないんです」

現在SOL'S COFFEEは東京・蔵前を拠点に都内4店舗、そして福井・若狭町に1店舗を構えている。福井の「SOL’S COFFEE LABORATORY店」ではなんとオリジナルのサバ缶「SABA'S COFFEE」まで作った。
「サバ缶つくったって、エスプレッソメーカーつくったって、音楽つくったっていい。お客様が楽しいと思えるならそれでいい。コーヒーはこうあるべき、と上からではなく、毎日の暮らしに馴染みたい」

「コーヒー屋はじめたて」のような、底なしの熱量。
彼女の道は15歳からまっすぐ今につながり、まだまだ先へ続いていく。

Special thanks to ARAI FAMILY

The main character of this story
荒井 利枝子
2009年4月にSOLISM株式会社を設立。同級生の親が研究していた自家焙煎珈琲を引き継ぎ販売することを決心し、SOL’S COFFEEとして通信販売と移動販売を開始。その後、蔵前にてコーヒースタンドSOL’S COFFEEを開店。現在では都内に5店舗、福井・若狭町に1店舗を構える。2022年、亡き父から受け継いだ「荒井鉄工所」のノウハウを活かした日本製の珈琲器具メーカープロジェクト quissaco(キッサコ)を始動。焙煎機の開発や、エスプレッソメーカーARCO(アルコ)の開発を手掛ける。
https://sols-coffee.com/
https://www.quissaco.com/
写真:島崎 康輔
文:井上 望(sog株式会社)

軽井沢アトリエ / sumori-an

〒389-0103
北佐久郡軽井沢町軽井沢1016-551

03-6416-3200(10:00-19:00)

軽井沢駅から車で5分

代官山アトリエ

〒150-0033
東京都渋谷区猿楽町18-8
代官山ヒルサイドテラス F-304

03-6416-3200(10:00-19:00)

代官山駅から徒歩3分